朝市野菜便(10/15)

 

  夏の暑さが過ぎ去って、気持ちのよい秋を待っていたら今朝は突然10度以下の冷え込みに。そういえば「高知は秋がなくてとつぜん冬になるから」と聞いたのを思い出しました。それでも日中は真夏のような日差しになったり。日中は半そでで過ごして、夜になると羽毛布団に加えて湯たんぽを用意したりと、どこまでもドラマティックな高知の気候です。

 

 それでもやはり、食べるものは秋らしく、柿、栗、そろそろさつまいもも出始めています。直売所に毎日ならぶ柿は、どうやら庭や畑の木になったもののようで、栽培ものにはないおいしさがあります。いろいろな柿を食べ続けてきて思うのは、「いちばんおいしいのは庭の柿」つまりは買えない柿です。それなのに、この地では庭や畑の柿(だとおもう…)の柿が普通に直売所に並んでいて、ほんとうにうれしい。日々いそいそと柿を買っては楽しんでいます。ふつうに切って食べるのが王道ですが、先日友人が「柿は酸味がないでしょう?やっぱり果物は酸味がなくては。だから柿には酢みかん(ブシュカンや直七)を絞って食べる」と聞いて、さっそくに試したところ、なるほどおいしい!柿と酢みかんは同じ季節のものだから、相性もよいのかもしれません。柿はサラダにしてもおいしく、チャーテの薄切りを塩してしぼったものと合えて、オリーブオイルと塩、ビネガー(酢みかんでも)味付けるのが気に入って、よく作ります。

 

 この季節、高知で出回る「りゅうきゅう」と「チャーテ」はふしぎな食べ物で、それ自体の味はごくごく淡泊なのですが、触感がそれぞれに魅力的で、さかんに食べられているようです。りゅうきゅうもチャーテも、「ほっておけばいくらでもできる」そうで、ならばと我が家も裏の生垣にチャーテを植えました。実を結ぶのはこれからなのですが、種を譲ってくれた方いわく「これから100個くらい際限なく採れる」。すこしどきどきしています。


 秋の味覚は豊かである一方、いまは野菜の端境期なので、そんな時期に重宝する野菜なのかもしれません。今日のお昼にはラーメンをこしらえました。ごま油で、新生姜をたっぷり炒め、チャーテ、りゅうきゅう、もやしの順に炒めてさいごに薄く塩味をつけてラーメンの上に山盛りにしてラー油をたらしたところ、淡泊ながら甘味のある、気持ちのよい昼食となりました。野菜をたっぷりと食べると、やはり体が気持ちよくすっきりとします。

 

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つるむらさき
りゅうきゅう
ブシュカン 
直七(なおしち)
ねぎ
チャーテ 
ちいさなかぼちゃ
新しょうが
ぎんなん


朝市野菜便(9/24)

 

 10月6日から11日まで、葉山の実家に滞在します。そして、7日から10日まで、4日間にわたり、いろいろな会をさせていただきます。秋の空気が満ちるころ、お目にかかれましたら、とてもうれしいです。


 7日(金)は鎌倉のうつくしい空間で「サンドイッチとコーヒー、本の会」を。友人の大浦美和さんと「なにか一緒にやりましょう」と立ち上がったこの企画、それぞれに内容を考えていたところ同じタイミングで「サンドイッチ!」とひらめいたのです。サンドイッチだけではなく、コーヒーと、本と、好きなものを全部詰め込んで。わたしはサンドイッチが大好きで、たぶん、世界で一番好きな食べ物。ホットサンドもいいし、フレッシュな野菜をはさんだものも捨てがたい、デザートには、カスタードクリームと生クリームとラム酒をあわせたものと季節の果物をはさんで大人のデザートサンドイッチ...と考えるだけで、しあわせな気分。でも、メニューは当日までのおたのしみ、です。美和さんのうつくしい紙ものと織物もならびます。


 8日は鎌倉の広瀬裕子さんのお宅で「ことばをよむ会・旅」。ちかしいひとたちだけでやってきた会が、はじめて外にひらかれます。白く清められた空間で、それぞれが持ち寄ったことばを読みます。どんな本を、どんな風に読んでも。ささやかな会ではありますが、ちいさな舞台に立つような気分。どんなことばに出会えるのだろう、ときめきます。途中では裕子さんが紅茶とお菓子を、さいごにはわたしがスープを出させていただきます。しっかり料理もたのしいけれど、こんなふうに食べ物が「ちいさなおまけ」のように、その場に集う人のおなかにおちてゆくこと。それだけで、もう、すでにちいさな物語の中にいるような気持ちになっています。

 

 9日は、友人の営むパン屋(とはいっても、空間も、パンも、置かれているものも、なにもかもが厳選された光あふれる奇跡の空間)で、ちかしい人と一緒に南インドカレーを作る会をさせてもらいます。素敵なひとたちと気持ちのよい場所で一緒に手を動かして、できた!と喜びながらスプーンを口に運ぶ。そのすべてが「その時だけ」のうれしい時間になる予感がしています。


 10日は、逗子の花杏路で、セッションをさせていただきます。「ちいさな旅のなかで、自由をみつけること」「すでにいた、あたらしい自分に出会うこと」がテーマです。ちいさな門をくぐり、松林をくぐりぬけて、からだと、こころと、たましいと。それぞれに呼びかけて、ご一緒に「自分の世界を読み解く」、そんな時間になればとおもいます。


 私にとっては、夢のような4日間。すべての「心の友」の支えがあってはじめて実現すること、そう思うと、あるいは自分は夢の中に生きているのかもしれない、と今日もまた思ってしまうのです。
 

 

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なす
つるむらさき
りゅうきゅう
空芯菜
土佐の酢みかん
みょうが
くり
新しょうが
かぼちゃ
おくら


朝市野菜便(9/17)

 

 夏が過ぎて、一瞬にして秋の空気が広がり、夏と秋のあいだはほとんどなかったように思います。なるべく火をつかわないように、と汗をかきかき台所に立っていたのがまるで嘘のように、あたたかいスープや飲み物に惹かれています。ひとりのほっとした時間の濃いめのミルクティーとジャムバタートースト以上になぐさめを感じる食べ物はありません。あたたかい紅茶が、それに混じった少量の牛乳が、やわらかい食パンのこんがりとした色が、そしてバターの魅惑的な香りとそれに重ねられた甘やかなジャムが、力をあわせて、でもそうと気づかせぬように私のすべてを許してくれるような気がするのです。いつか友人が、「精神的に不調になると、紀伊国屋のイギリス食パンのいちごジャムバタートーストが食べたくなる」とつぶやいたことを時折思いだします。ジャムバタートーストには、なにかが仕掛けられているのかもしれない、とも。バターは有塩バターでたっぷりと、ジャムはなるべくオーソドックスに、いちごかマーマレード。ブルーベリーだと「しっかりしなさい」と言われているように感じるし、はちみつだと、パンとバターとはちみつの究極のバランス、を意識してしまいそう。


 パンは食パンがいちばん好きです。天然酵母パンのゆるぎのない確かな感じも魅力的ですが、ジャムバタートーストやサンドイッチにするなら、やはり食パンです。今日作ったサンドイッチは、厚切りのベーコンをフライパンで焼いている間にパンを切り(食パンではなく丸いクルミパンだったけど)、卵をわりほぐして塩を入れ、ベーコンがかりっとなったらフライパンの脇に寄せて胡椒をふって、そのとなりでパンを焼き(わが家にはトースターがない)、パンが焼きあがったら取り出してベーコンを中央にもどして火を強め、溶いた卵をじゃっとのせて焼いて、パンにはさんだものでした。マスタードとレタスがあったら最高だったけれど、所要時間3分の魅力はマスタードとレタスを十二分に凌駕していたように思います。それにもし、昨日の残りの野菜スープがあったなら、魔法のように幸せなごはん。サンドイッチと、スープ、所要時間3分!サンドイッチも、スープも、手法は違えどもどちらも重ねられたもの。手近にあるものを(買い物はしない)、その素材が願うよう素直にプロセスを重ねたのちに姿を現す、ある種の完璧さがあるように思えます。


  サンドイッチにまつわるわたしの妄想は、「ある日約束もなく訪ねた友の玄関先で、『かるくたべていかない?』と招き入れられ、サンドイッチを食べさせてもらう」。パンには「冷蔵庫にあったチーズとレタス」や「昨夜のポテトサラダの残りとマスタード」や、「きんぴらごぼうとかいわれ」が、つまりそのひとの生活のかけらが挟まれているに違いなく、ゆえにそれをつくったひとはすこし恥ずかしそうにしていたりして、そんな瞬間を夢見るのだけれど、なかなか実現しなさそうなので、ならばわたしが実現させよう、そうすれば同じことなのだ、と思ったのでした(そして夢はきっと忘れた頃に叶う)。

 

 

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りゅうきゅう
なす
ピーマン

ブシュカンとすだち
空芯菜
つるむらさき
新生姜とひね生姜
おくら


朝市野菜便(9/10)

 

 

 

 好きなものに、手紙と小包、それから電報があります。青い簡素な台紙に限界まで短くした文章。1文字あたり、だいたい10円くらいという妥当かどうか判断しかねる価格、なによりも、郵便屋さんが「電報ですー」と手渡してくれるその場面を想像すること。受け取るひとは「電報?」と一瞬時間がとまるような感覚になるかもしれない。そして、「誰がいったい何のために…」とどきどきしてくれるかもしれない。電報といえば過去の通信手段というイメージが強いと思う。「ハハキトクカエレ」とか「サクラサク」とか。私の父は出席できない結婚式によく祝電を打っていたが、いまでもそれは一般的なのだろうか?


 電報のよいところは、当日につくところ。それから凝縮したメッセージ。紙を媒体に、人の手で届けられるという時代を超えるシンプルさ。それからとにかくものがたりのように不思議に特別な感じ。わたしにとって、電報はもはや日本の誇る(?)貴重な通信手段なので、これを絶やしてはならぬと機会があればせっせと(というほど頻繁ではありませんが)電報を打っているのです。もっとも最近はインターネットで電報を送れるので、いくぶん情緒に欠けるのですが!「わたしもぜひつかってみよう」と思われる方がいらしたら一点、台紙はかならず「一般(連絡用)」を。お誕生日の電報だからといって「お祝い」の無料台紙を選んでしまうと、だれがどういう基準で選定したのかわからないカトレアの台紙になってしまうのです(あの青色のそっけない「一般」の台紙のデザインを絶対に変更しないでほしい、と切に願っています)。以上、電報の草の根普及運動でした。

 

 ここのところ、畑に夢中になっています。根のはびこる土地をせっせと開墾して、9月のはじめにはじゃがいもを100個植えました。頭の中はすっかり豊作のイメージで満ち満ちていますが、結果はいかに。冬の寒さに備えて大きく育ったレモングラスを土から上げて、根っこの部分を何等分化に株分けして、半分は鉢にいれて、残りは畑に埋めてススキの葉をお布団のように敷き詰めました。人参の種をまくならば今がぎりぎり、と聞いてあわてて種を買い、「発芽するまで土を乾かさないように」との教えを守るべく朝晩水をやるのですが、晴れの日はどうしても土が乾いてしまうのを「どうしたものか」と悩んだり。香菜(パクチー)の種をまいて発芽したと小躍りしたのも束の間、れがトマトの芽だということが判明してがっかりしたり。なにもかもが初めてで、避けるべくは「上手く育てよう」という思いなのだと自分に言い聞かせつつ、行き当たりばったりの畑の日々です。もし、もしもじゃがいもがたくさん収穫できたなら、野菜便にひとにぎり入れるのが今の夢です。

 

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なす
つるむらさき
りゅうきゅう
ピーマン
空芯菜
ぶしゅかん
みょうが
くり
ゴーヤ
新しょうが
きゅうり


朝市野菜便(9/3)

 

 8月の土曜はカフェをひらいていたので、1か月ぶりのオーガニックマーケットです。あちこちから「ひさしぶりやね!」と声をかけていただいて、ぴかぴかのお天気のなか、たくさんのひとの笑顔と季節のあれこれを眺めながら、この場所が「自分にとって大切な場所」になっていたことに気づきました。


 いつも身ぎれいな着こなしをされている生産者さんからは「あげるって約束してた青しそ酒、8月はいつも持ってきていたのになかなか会えなかったから…」と濃い液体の入った瓶を手渡され、おとなりからは「これ食べてみて!竜馬が海兵隊で長崎に行っていたときに食べたカステラや!砂糖は甘蔗糖(かんしょとう・きびざとう)を使って、卵はじぶんとこの。味がぜんぜん違うやろ!」と味わい深いカステラを一切れいただき、いつもお世話になっている柑橘農家の井上清澄さんからは「服部さん、これ来年蒔きなさい。10日おきにまいたら夏中きびが食べられるから…」と乾いたとうもろこしを2本、「それからこれではぶ茶をつくって。適当に切って、玉ねぎのネットに入れて木槌でたたいて、えびら(箱ざるのようなもの)で2−3日干したららできるから…」とやまぶき色の花がさく一抱えいただいたのでした。春にうどの根をゆずっていただいた方からは「うどの花さいた?太らせる(大きくする)ためには、花はつまないといかん。花は酢味噌あえにして食べられるから」と教えていただき、お菓子づくりのひとからは「一周年なんです!お礼のクッキーです」とかわいらしいスマイルクッキーを2枚。帰ろうとしたら、いつもおいしいコーヒーを淹れてくれるはなればなれさんが到着。ざっくりとしたデザインが魅力的な大きなコーヒー豆の麻袋を何枚もどさりと芝生におき「神戸に行ったときにもらってきたから…」と。屋外の敷布かわりにしても、中につめものをしてクッションにしても、もちろんなにかを入れてもよくて、真剣に5枚を選んで、500円をわたしたところ「400円でじゅうぶん!」と100円を手にのせられたのでした。


 この場所が、どうしてこんなに居心地がいいのか、それはきっと、みんなの機嫌が良くて、自分が好きなことをしていて、人のことを大切に考えていて、ごく自然に人とシェアする習慣があるから。品のあるたたずまいのひとのつくったちいさな梅干しは宝石よりもかがやいていて、お客さんもこの場所にいることをうれしくおもっていて。このオーガニックマーケットが決して小さくはない規模で、毎週開催されているものだから、つい、社会全体がいつの間にか居心地のいい場所に変化したような気がしてしまうのです。実態のあるようで、ないような「社会」は、ときにわたしたちの前に大きく立ちはだかっているように見えるけれど、それでも、たしかなしあわせはいつだって小さな試みからはじまり、波紋のように、気づかないうちに広がってゆく、そんな風に思えてならないのでした。

 

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なす
つるむらさき
ピーマン
おくら
空芯菜
ぶしゅかん
みょうが
ぼっちゃんかぼちゃ
白ゴーヤ
甘唐辛子


朝市野菜便(8/18)

 

 一月のおわり、香美市日ノ御子に越してきてから半年が過ぎました。工房と小屋の改修に足掛け2か月かかり、週にいちど、水曜日だけのカフェをオープンしたのが5月。民家もまばらな山のふもとに来てくださる方がいるのだろうか….と思っていたのですが、最初の1,2カ月は友人知人が応援がてら駆けつけてくれて、なんとか「お店」らしき形にすることができました。このごろは少しづつ「お客さん」が増えて来て、ご紹介の方や、インスタグラムにのっていたのを見て...という方も。遠くからいらしてくださる方もいらして、毎回うれしい出会いをいただいています。


 メニューはカレー1種類に、デザート1種類、グラノーラに飲み物と選択の余地がほとんどなく、いらした方はもしかしたらびっくりされているかもしれません。カレーはスパイスを挽くことも含めて鮮度がおいしさに直結するので、当日の朝につくります。なるべく家にある材料で、調味料は丁寧に作られたものを、出来立てで、たっぷり食べても疲れないように...つまりは家族の食事の延長線上にあるものをお出ししています。「お店らしい」見た目や味よりも、「友だちの家に来てごはんをたべる」、そんなイメージです。作るのはたいてい10食分くらいで、この量であれば残ってもフレッシュでおいしいうちに「家族のごはん」として楽しめる、という算段です。


 今週のメニューは、南インドの薬膳スープカレー“ラッサム”に、ターメリックライス、じゃがいもと青唐辛子のポリヤル(スパイス炒め)、きゅうりとブシュカンのサラダ、豆乳ヨーグルト+薬味野菜、でした。ぜんぶ少しづつ混ぜながら食べるのがインド式、とりわけヨーグルトとカレーの相性がよく、最初に試した時は「ごはんにヨーグルト…」と絶句したのですが、これが本当においしくて、いまでは必ずヨーグルトと混ぜてたべるようになりました。デザートは、さいの目に切った寒天に、緑豆ココナッツあんと、地域でとれた季節のフルーツーいちぢく、すいか、タイガーメロンをブシュカンとアガペシロップで。すこし変わったフルーツあんみつ、です。クーラーがないので、少しでもすずしさを、と透明な大きめの氷をひとつおとしました。


 高知の酢みかんー高知では果汁をつかう柑橘全般をこう呼びます(ゆず、すだち、ブシュカン、直七など)ーは夏の青いブシュカンの登場からはじまります。焼魚や焼いた肉に絞ったり、冷たい麺を食べる時には皮をすりおろして香りを添えます。魚の切り身に果汁とおろしにんにく、しょうがをまぶしてからオリーブオイルで焼くのも簡単でおいしい。さらにそれをトマトソースでさっと煮たものをサンドイッチにしたら、異国情緒あるおいしさでした。サラダにつかってもビネガーとは違った、フレッシュな爽快感が楽しめますし、炭酸水やビールにたっぷりと絞り入れるのもうれしい使い方です。寒天のシロップや、レモネードのように甘みを加えても。これから来年の2月くらいまで、うつろう高知の柑橘をたっぷりと、ふんだんに使うのが今から楽しみです。

 

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タイガーメロン
つるむらさき
甘とうがらし
なす
おくら
空芯菜
すだち
ブシュカン
かぼちゃ

 


朝市野菜便(7/28)

 

 私が住まう香北町は、高知市から車で時間、「かなりの田舎」であるのですが、さらに奥には、物部村(ものべそん)という地域があります。深く険しい山が面積の95%を占めており、陰陽道や古神道のひとつ、「いざなぎ流」という民間信仰がいまだ残っていて、雄大な渓谷もある...ということで、興味はあるけれど、なんとなく、おそろしいような、近づきがたいような気がしていたのでした。もっともそんな気分にさせる地域というのは現代日本ではめずらしいことで、そんな「畏れ」を身近に感じていることそのものを興味深く感じていたのでした。


 そのお祭りのことを知ったのは、数日前のこと。物部の山の奥の「笹普賢堂」で夏祭りがある、という話を知ったのです。盆踊りもあると知って、行ってみたいな、とは思っていたのですが当日はあいにくの雨、我が家からさらに1時間も子連れで暗い山奥に入っていくのは...と行くのを諦めたのでした。夕方になって、毎日恒例の「一人で図書館通い」のために家を出て車を走らせていると、雨の止む気配。右に行けば図書館、左に行けば物部のお祭り、やはりどうしてもその山奥の祭りの風景を一目見てみたい、とおもわずハンドルを左に切ったのでした。


 物部川に沿った道をひたすらに進み、巨石や水のうつくしさに心を奪われる、というよりもむしろそのなじみのない荒々しさに、息を飲み、山の雰囲気も、神様?妖怪?そう、精霊が存在していそうな雰囲気にみちみちていて、「このままどこか別の世界につれて行かれてしまうのでは…」と不安になるほどでした。家族は私が図書館に行っていると思っているので、まずは連絡せねばと思っても電波はもちろん圏外で、民家もほとんどなく(2キロおきに一軒くらい)、日は暮れ、山の闇は深まるばかり….どこまでいっても、お祭りの気配はまったくせず、お祭りに向かうらしきひとも車もおらず、手遅れになるまえに引き返した方がいいのでは...でもこのまま進んでいきたい、というふたつの思いが拮抗するなか、さらに進んでゆくと、かすかな音色と電球のあかりが見えたのでした。はたしてお堂は小さいながらも立派で、どうやってこんな山奥深くにこんなお堂ができたのだろう、と不思議な気持ちでお参りを済ませ、10人ほどが踊っているほうに目を向けると、飛んだり跳ねたり、いわゆる「盆踊り」とは似ても似つかない踊りが繰り広げられていたのでした。変拍子の調子はつかみずらく、手を打つタイミングも裏拍子なのか、とにかく自分のなかにこれまでなかったリズムや体の動きに引き込まれ、そのなかでひとりの男性の踊りに目が釘付けになったのでした。とても素人とは思えない躍動感と力強さ。聞いてみれば「いざなぎ流」の太夫(神職、舞も舞う)でいらっしゃるとか。「この盆踊りはいつからあるんですか?」と聞いたところ、「まあ4ー500年前からかね。昔は朝まで踊ったもんだ。まあ踊りや」と言われ、おぼつかない足取りでようよう2曲踊り終え、連絡のつかない家族が心配しているかもしれぬ、と後ろ髪ひかれる思いでお祭りをあとにしたのでした。来年は、最後まで踊りきろうとこころに決めて。

 

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なす
にら
きゅうり
大根葉
つるむらさき
ピーマン
おくら
空芯菜
トマト 

にんにく
ぶしゅかん


朝市野菜便(7/9)

 

ここのところ、行くのを楽しみにしているお店があります。最寄駅(とはいっても車で20分!)の近く、シャッターが閉まりがちな商店街のはしのほうに、忽然と全面ガラス張りの木枠のドアのコーヒー屋さんがあらわれます。すてきなコーヒー屋さんがあるらしい、とは聞いていましたが、まさかこんな場所にあるとは思わず、初めて見つけた時には「まさか」と思ったのでした。まさか、こんなところに、こんなお店が!


すこしひんやりとしたシャープな雰囲気の店内には、椅子がいくつか。ひろびろとした、周到に調えられた空間。コーヒーのための場所、であると同時に、その場所にいること自体に意味がうまれるような、そんな印象を受けました。しずかなようすの店主がひとりでコーヒーを入れ、午前中には泡だて器を使ってケーキをこしらえています。いつ行っても安定感があること、そして清潔感のある空気がその居心地の良さのひみつのように思えました。とはいえ、長居する、という感じでもなく、滞在時間はいつも30分くらい。そのお店は週に6日、9時から6時まで、扉をひらくすべてのひとにむけてひらかれているのですが、不思議な親密さがうまれるようにも思うのです。店主と訪れるひとの距離がきちんとあって、あいだにおいしいコーヒーがあって(午後にはケーキもある)、その時間を楽しみにする、そんな場所があるということは、なんて幸せなことなんだろう、と先日も雨の降る日に車を走らせながら思ったのでした。


先日その空間ではなしたことのなかに、「そのひとのありようが、そのひとのやっていることにきちんとフィットしていたなら、ほんとうに良い仕事ができるとおもう」ということがありました。アウトプットの形は多様で、好みも方向性も、人の内面世界の数だけあるのだから「これがいちばん」という「かたち」はないのだけれど、「そのひとの内側」が「やっていること」と調和していたら、この世界に「うつくしい世界」が空に散らばる星のように点在することになるのではあるまいか、とあまやかなモカコーヒーを飲みながら思ったのでした。そしてそんな「はたらき方」あるいは「生き方」に自分がすこしでも近づけたなら、とも。


梅雨が明けたかのような夏日が続いていましたが、数日前から一転して雨。肌寒い雨の日には、あたたかいスープを、そして暑い日にはすずしくなるような食べ方を。居心地のよい温度をつくる良さとありがたさもあるけれど、外の世界の温度に自分のからだをどうあわせるか、ということもなかなかにおもしろいものだと思うのです。暑くなる予感がする日には、やたら熱心に打ち水をしたり、午後にはシャワーを浴びて昼寝をしたり、それから火を使わないすずしいごはんをこしらえたり。そんな「暑さとの日々」は悪くない、とも思うのです。

 

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つるむらさき

すもも

ちいさなじゃがいも3種

おくら

甘長 

きゅうり
空芯菜
トマト
生姜とにんにく

 


朝市野菜便(7/2)

 

長い雨がつづき、すっかり気分も滅入っていたのですが、昨日今日と晴れが続き、ひといきに元気になってしまいました。洗濯物は良く乾くし、掃除をしてもなにをしても、ほんとうに気持ちがいい。雨続きでのばしのばしにしてしまっていた郵便ポストの修理をして、網戸もはずして洗って、たいそうしあわせな気分です。


香北町に引っ越してから、オーガニックマーケットが車で1時間とずいぶん遠くなってしまい、すこし足が遠のいていたのですが、どんな野菜や果物が並んでいるか気になって仕方なく、今日は早起きして行ってきました。トマト、きゅうり、いんげんなど元気な夏野菜がずらりと並び(高知の夏は早いのです)、いつもお世話になっている柑橘農家の清澄さんのところに行くと、「まあこれを食べてみて」と赤く熟れたソルダムを手渡されました。


食べてみたら、味の濃さ、甘さ、透明感、どれをとってもすばらしく、これまで私が食べていたソルダムはいったいなんだったのだろう?と思ったほどでした。ソルダムと採れたばかりの栗のはちみつを2びん買って、清澄さんの「作物多様性の重要性」についての個人講義を受けてから、マーケットをぐるりと一周まわったのでした。知り合いのコーヒー屋さん、「はなればなれコーヒー」で、アイスコーヒーに牛乳をいれてもらって、ゆっくりとすごせるようにと用意されたアンティークの椅子に腰かけて、氷の浮かんだつめたいコーヒーを飲みながら、ぼんやりとマーケットの風景を眺めていたら、突然に夏がやってきたような気持が駆け抜けました。まだ梅雨はつづくはずなのに、その瞬間、季節ががらりと変わってしまったように感じられたのです。風はどこまでも爽やかで、空気は太陽のひかりできらきらしていて、まるで夢を見ているようでした。


そして、わたしの大きなかごには、かぼちゃやトマトやいんげん、青しその大きな束に、ソルダムとはちみつがあふれるほどに入っているのです。その風景を前に、日々の些細な不平やぼんやりとした不安はほとんど意味をなさないようにも思えたのです。けれども、それは留めることが不可能な、ほんの一瞬の出来事で、当然わたしは日常の世界へと戻っていくのです。そうだとしても、「あの瞬間」を感じたこと、きらめきの瞬間がよぎったことは動かしがたい体験であり、そんな「瞬間」が日常の中に重なり続けた先にはいったい何が見えてくるのだろう、とこれもうすぼんやりと思ったのでした。


 マーケットには、わが家の最寄りの本屋の「うずまき舎」さんも出店されていて、ここの本の並びを眺めたが最後、手ぶらで帰ることはほぼ不可能です。今日は、『子規歌集』(最近短歌と俳句が気になる)と、石牟礼道子と伊藤比呂美の対談『死を想う われらも終には仏なり』(改めて題名を書いてみて「!」。著者のお二人に興味があったのです)を購入。いつも楽しみにしている「うずまき新聞」もたくさん分けていただいきました。

 

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えだまめ

つるむらさき

えんさい 

きゅうり

トマト 

いんげん

にんにく

青そう(せいそう)

かたい桃


朝市野菜便(6/25)

 

旅、は物理的な距離の移動であると同時に、心の旅、もっといえばあたらしい世界への旅であるように思えます。夏至の日、鎌倉山で独立数学者の森田真生さんのお話し会がひらかれると伝えられたその時、わたしをとりまくあらゆる制約をかるがると飛び越え、「どうしても、行きたい」との思いがあふれたのでした。


森田さんのことは数年前から興味を持っていたのですが、「数学」というジャンルが私に本を買わせることをためらわせていたのでした。小学校2年生で掛け算を教わった日から、その後数年間「数学」はわたしの上に重くのしかかり続け、17歳のときにその重圧からようやく解放されたとき、心底安堵したのでした。


だのに、なぜ数学者である彼に興味を持ったのか。それは「あたらしい時代」を予感させる要素がいくつもあったからです。独立数学者、というあり方、そしてその若さ。同時期にたまたま数学者の岡潔の著作をいくつか読んだのでした。数学の中心にあるのが「情緒」である、という一文を目にしたとき、「あたらしい世界」と「本質」をつなぎ合わせる確かな強い光が見えたように、思えたのでした。

 

夏至の当日、無垢の木で包まれた集会所ーというには惜しいほどのうつくしい空間ーでお話し会はおこなわれました。なんらかの必然、もしくはご縁で集まった30人ほどのひとたちは、瞬く間に軽やかな疾走感に満ち満ちた森田さんのお話しに引き込まれ、ついには全員がその場に立ち上る雰囲気に恋をしてしまったように思えたのでした。好奇心と、喜びと、あたらしい世界へのときめき。数学、というものが突然に手触りを持った可能性としてとして感じられたのにも驚きましたが、その場にいたひとすべてが夢中になってしまったのは、森田さんの、その情熱と熱意、きらめきだったように思えるのです。しばしば例として取り上げられる理解困難な数学の話(微分積分、とか)をわずかでも理解して、彼が表現する世界を感じたい、という衝動。あるいは話の内容をどの程度理解しているかということはどうでもよいのかもしれません。彼のうちにみなぎる清冽なパッションを浴びているということ、そしてそれが実際とり行われている「いま」に幸運にも立ち会っているという事実に、たいそう興奮したのでした。その日、気づかないうちに、わたしはすっかり夏至の魔法にかかってしまっていたのです。世界はどこまでも広がってゆき、制限は取り払われ、世界の見え方が、今までとはまったく変わってしまったのでした。


翌日の早朝、空港に向かう電車の中で森田さんの「数学する身体」(サインしてもらった!)に昨日の記憶を重ね合わせながら読み進める時間もまた特別で、会場で友人が入れてくれたコーヒーの香りと、その後の夢のような夕食の時間とないまぜになった夏至の日、その一日にたどり着けたことそのものが、魔法だったのだ、と感じたのでした。魔法の扉はすでにひらかれ、果てしなくつづく、とも。

 

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すもも

えだまめ

トマト

プチトマト

じゃがいも(アンデス)

つるむらさき

にんにく
しょうが

青そう(せいそう)


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